以下はノープラン一発書きのためダラダラになっている。情熱が溜まり次第、整える。 はじめに †川内北キャンパス、サークルG棟2号室は熱気球部の部室である。 この部室は、ホコリ、ヤニと落書き、その他諸々でひどく汚れていて、さぞや長い歳月を越えてきたのだろうと感じられる。 ここは、我々部員の心の拠り所であり、故郷でさえある。 しかし、ここは一体いつから我々の家となったのか、この家はいつ落成され、どんな風景を眺めてきたのかについて、我々はこの空間から得られる印象以上の知見を持ってはいない。 本稿は、部室の立地、建物の歴史について、記録の残る限り明らかにするための調査書である。 江戸時代 †川内北キャンパスは仙台城の直下なので、伊達家にゆかりのある人物や仙台藩の要人が多く住んでいました。古地図によると、幕末には現在の部室の位置にも大きな屋敷が建っていたようです。その古地図によると、和田常之丞かあるいはその隣人が住んでいたようですが、文字が潰れて読めません。ともかく、要人が住んでいたのです。 明治〜 †ここはまだあまり調べていません。地下鉄東西線川内駅の紹介ページを引用します。
戦後 †引用を続けます。
戦後、川内は米軍の駐屯地となっていました。 次に、東北大学資料館のPDFからの引用です。 1957年に川内が米軍から返還されると、その跡地利用をめぐって自衛隊を含む様々な構想が出されたが、大学を中心とする文教地区として整備されることとなり、1958年に北側地区(現在の北キャンパスと公務員住宅)および青葉山植物園が東北大学に移管された。大学は当時富沢および北七番丁にあった一般教養課程(富沢分校・北分校)をここに移転し、米軍が建てた瀟洒な建物はその学舎として使われることとなった。これらの建物は1960年代後半以降のキャンパス整備のなかで徐々に取り壊され、わずかに残っていた数棟の建物も、近年のキャンパス改造により完全に姿を消した。 この辺からは、東北大学関係写真アルバムに数多くの写真が残されており、これらを注意深く追うことで(自宅に居ながらにして)部室の歴史を明らかにすることができます。 貧食誕生 †遠景、または航空写真から部室を探していく。 まずは、1960年頃の写真である。 川内地区遠景 / 1960年 a この時には、いまだ現在の川内北キャンパスの形は見られない。 読み取れる範囲だけ、右端に見える橋が中ノ瀬橋で、その先端の左上に見えるのが澱橋である。そうすると、それら2本の橋の間に見えるのが仙台二高で、その左下端からやや下向きに左へ延びるのが現在のバス通りであることがわかる。 次に講堂と書かれたところから左上に延びるているのが、現在の川内南キャンパスから、北キャンパス正門を通って郵便局側へ抜ける一連の道であると思われる。道中に謎の林があるが、これが南北のキャンパスの間にある沢で、そのすぐ上にある道が扇坂である。 ここまでわかれば厚生会館や講義棟の位置もわかるのだが、それらしい建造物は見当たらない。 講義棟が建設されるのが、1965年頃である。 この写真では向きがわかりにくいが、右上に見える川内会館は現在の体育館のあたりにあった(教養部構内(川内会館) / 昭和40年前後か)そうなので、この写真は講義棟を裏側(西側)から撮ったものであるといえる。 2つの講義棟の手前にくっついている2階建て相当の部屋が大講義室(A101、B101)のようだ。 講義棟と川内会館の間には三角屋根の建物がいくつか見られるが、それらは、向きから、貧食でもサークル棟でも無いことがわかる。 講義棟であるが、その後数年以内に完成したことであろう。 1969年にはすでに完成しており、さらには、学生闘争に巻き込まれている写真がある。 また、同年には厚生会館も既にある模様である。 周囲が随分とさっぱりしているが、1965年頃には旧米軍の建物の取り壊しが一斉に行われたことを示す写真も多く見ることができる。 さらに、貧食もこのころに始まったといわれる。 2009年以降に入学した方々には最早馴染みが無いかもしれないが、かつてF棟と川内郵便局前の通りの間には貧民食堂という、カレーライスしか出さない食堂があった。貧民食堂は愛称だが、さらに略して貧食と呼ばれていた。 熱気球部室においても、昼は貧食でカレーを購入し、それをお盆ごと部室まで運び込み、漫画を読みながら食べる、というのが毎日の光景であった。その味に魅せられた者は多く、自主休講はしても部室に来て貧食のカレーは食べる、ということもよく行われていた。 この貧食だが、2008年7月25日に惜しまれながら多くの現役学生により閉店した。 2014年現在、貧食の跡地は粗末な駐輪場になっているが、いずれは地下鉄東西線関連の施設になると思われる。 さて、信頼できるソースはまだ見つけられていないが、貧食は41年の歴史をもっていたといわれている。 貧食閉店セレモニー - 東北大学まとめWiki これが正しいとするならば、貧食の開店は1967年だということになる。 貧食の正式名称は川内第二食堂である。第二というからには、第一が既にあったはずであり、その第一食堂があったのは当然、厚生会館である。 よって厚生会館も1967年以前に完成していたと考えられる。 このころには、学生部室も貧食の向いに作られたようだ。 以下には、完成した講義棟と、現在のマルチメディア棟とその道路側の地下鉄駅工事現場の間の位置にあった学生部室の写真が掲載されている。 教養部 学生部室および講義棟(北側から) / 昭和46年(1971)頃か もしかしたら、この建物にはD棟と呼ばれていたのかもしれない。 さて、学生部室が現われたところで、我らがG棟もそろそろ生まれただろう、そう思いたいところであるが、実はまだ影も形も無かったらしい。 次は、1970年代も終盤、1978年の写真である。 写真中央の辻が北キャンパス正門である。その左上に3棟の似た大型の建物があるが、これが講義棟である。真ん中の講義棟の右側の、藍色の屋根をした建物が厚生会館である。 そしてその厚生会館の上側、少し離れて道路沿いに白い屋根の棟があり、それが貧食である。 ご欄のように、厚生会館と貧食の間には謎の空間こそあれ、建物は見当らない。まだ部室は作られていないのである。 時系列が逆になるが、参考になるので、川内地区空撮 / 昭和50年(1975)6月も一応記載しておく。 ちなみに、貧食の隣にある目立つ赤い屋根の棟であるがこれは懐しのガス庫である。 ガス庫は話題になりにくいのですっかり忘れ去られているが、かつてはここにシリンダーを保管していたのであった。 この建物は、貧食が取り壊される少し前に撤去された。 部室誕生 †部室誕生 †疲れた。残りの資料。 第二食堂というのは先にも述べたように貧食のことである。右側に垂直に切り立った謎の影がC棟であると推測すると、この写真は、現在のマルチメディア棟の入口付近から、南門方向を撮影したものと思われる。 このとき、電柱のあたりが現在のG棟の位置になりそうだが、そこには謎の建物がある。 この建物が何に使われていたのかは不明。 貧食の向いに白屋根の長屋ができている。これはF棟である。しかしG棟はまだ見えない。 入り組んでいてよくわからないが、屋根の色や南側へのせり出しから判断するに、画面中央の建物がG棟であるような気がする。 あとトイレ(今はもう無い)らしきものが建てられている? このトイレは汚かった。川内キャンパスでも最大級の汚さだった。 ところで、気球部の歴史からわかるように、気球部の創部は1977年である。 ここまでの調べによると、部室が建設されたのは1980年からであるから、創部当時は部室は無かったということになる。 ここで、神々の系譜のいざなぎのページを参照すると、気球部創部期の年表は以下のようになるはずである。 1977年10月 大学祭にて有志が気球イベントを行う †気球イベントとはどういった内容なのかは不明である。また、なぜ気球なのかも不明。
1977年10月以降 熱気球部創設 †球皮の製作開始は翌年であるとされているので、77年中は気球の設計を行っていたのだろう。 1978年 いざなぎ制作開始 †部室はまだ無い(少くとも今の場所には)はずなので、どこに集ってどこで作業をしていたのかは不明。 1979年4月 いざなぎ完成 †1980年 Jupiter製作開始 †1980年末 現在のG棟を獲得する †気球を収容するために、入口ドアが両開きの部屋を選んだ、という話は今も伝えられている。 だが普通、両開きと片開きのドアが混在する建物が都合よく作られるとは思えないので、G棟建設前か後か、とにかくいろいろとがんばったのだろう。 1981年7月 Jupiter完成 †1981年7月 いざなぎ大破 †いざなぎの運用終了とJupiterの完成のどちらが早かったかは不明。 Last-modified: 2014-05-31 (土) 03:20:53 (2463d)
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